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会社概要
大切な方に藍を添えて…
ご挨拶

四季折々に美しい自然を彩る徳島の阿波に育った藍。
藍は薬草として古代から漢方薬として重宝されてきました。
又、藍薬は健康に良いといい伝えられてきています。
タペストリーのれん、健康肌着、着物、帯もジャパンブルー
日本人の心の色として皆様に慕われてきています。

藍香房では、そんな藍の特性を生かした健康食品も作りました。
それぞれに風味も味わいもある食品に、藍の成分を加えた
自慢の美味しさです。

京都・祇園へお立寄りの際はぜひ一度、 藍香房へお越し下さい。
京の香りと藍の素材にこだわった品々でお待ちしています。

代表取締役 中西良子
 

会社概要

会社名 株式会社 藍香房
代表者 代表取締役 中西 良子
所在地 〒605-0074
京都府京都市東山区祇園町南側570-122
電話 075−533−3110
FAX 075−533−3115
E-mail info@aikoubo.com
営業時間 10:00〜20:00 年中無休
業務内容 藍染製品
(呉服・和装小物・衣類・食品等)の販売

青は、藍より出でて藍より青し

藍は人類最古の染料です。有史以前から人類は藍を使って布を染めてきました。藍が いつごろ日本に伝わり、栽培作物になったかははっきりしませんが、日本に関する記事をのせた最古の中国の史書『魏志倭人伝』によると、正始四年(二四三)には倭国から降青(こうせいかとり)すなわち赤や青に染められた絹織物が魏王に献上されたとありますから、日本でも藍染はかなり古くから行われていたと考えられます。

平安時代、藍染は毎年六月一日から八月三○日の夏の三ヶ月間に染める定めとなっ ていました。これは藍の発酵建ての場合、この間ならば保温しなくとも、自然発酵したためであったと考えられます。なお、『延喜式』主計によると、乾藍三斗三升三合三勺が諸国の庸として都へ送られてくることになっていますが、これによって、八世紀には生葉を使っての藍染だけでなく、乾燥藍や(すくも)による藍建ても行われていたのではないかと考えられます。色相についても『延喜式』では深縹(こきはなだ)、中縹、次縹、浅縹、深藍、中藍、浅藍、白藍などに分けられており、染色技術の進歩と共に、日本人の繊細な美意識を物語っていると言えましょう。

鎌倉時代には濃紺の葛色の葛(かち)の音が勝ちに通ずるところから、藍色は武家 の愛好するところとなり、幅広く藍染は利用されました。

江戸時代、各藩では主要な産業植物として、三草四木の保護奨励をしてきました。とりわけ町民が一段と経済力をつけた江戸後期になると、幕府の度重なる『ぜいたく禁止令』にもかかわらず、人々は織り、柄、染め、ともに一段と多彩になりました。染め屋は「紺屋」と呼ばれたように、藍染が主体で藍染は専門職でした。藍は庶民の労働着から高級な将軍の着物、さらにはのれん、ふとんなどの生活財まであらゆるものを染めるのに利用され、暮らしの基本色となったのです。日本に来たラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は 『極東の第一日』という著書に『日本の人が着ていた着物は紺色が大部分を占めてい る。また、その紺色が店屋の色をも支配している。』と記しています。そして外国の人達はこの藍の色をジャパンブルーと呼ぶようになりました。

藍の産地として有名な阿波(徳島)の豪商、奥村家に伝わる、古文書によると阿波 から出荷された藍の記録は室町時代にさかのぼり、ことに天正十三年(一五八五)蜂須賀家政の阿波入国によって藍の一大産地となり、犬伏久助の『すくも製法』確立により、江戸時代後期には独占的に市場を支配し、莫大な富を阿波にもたらしたとあります。そのため、阿波屋を名乗る紺屋が各地に多かったのはそのせいであり、城下町に紺屋町という町名が誕生したのもこの頃のことです。

一八八○年ドイツで化学的に合成藍が開発され、日本で輸入、使用されるように なってから急速に姿を消し、藍の栽培も極一部を除いて行われ なくなってしまいました。合成藍は、はるかに早く、低価格にかつ軽便に染める事が 出来たからです。また、第二次世界大戦では食料増産のため禁止作物になり絶滅の危機にさらされました。

しかし、藍を造り続け、藍を守った人がいました。その人は、阿波の佐藤平助翁で した。平助翁は、数々の優れた美点を持つ天然藍が姿を消してしまうのを惜しみ私財をなげうって藍の栽培、製造を続けました。この間に佐藤家伝来の刀剣や鎧兜などの家宝は全て人手に渡ってしまったといいます。それでも平助翁は、『いつか天然の藍の良さが見直される時がくる』と信じて頑固に藍を造り続けました。

故片野元彦氏も合成藍の色は『死に色』と呼び、『天然灰汁発酵建』こそ本当の色 だと言い続け、後世に残る多くの絞り作品を残しました。

昭和四一年、徳島県は伝統の技術の保存に乗り出し、平助翁を県の無形文化財に指 定、昭和五三年には国も平助翁、息子の儀一翁亡き後、その技術を受け継いだ孫の昭人氏を国選定・阿波藍製造技術無形文化財に指定、平成四年には現代の名工を受賞とやっと天然の藍が認められ始めました。また、故片野元彦氏の影響を受け徐々に『天然灰汁発酵建』の技術を守る藍染師もわずかながら増えてきました。

現在、日本で一年間に染められる藍染は九九%以上が化学的なものです。白花小上 粉の蓼藍の葉を発酵させた『すくも法』、すくもを使った『天然灰汁発酵建』の技術で染められた藍染は一%に満たないのです。

〔資料−日本の藍〕